10月の散歩道

開湯1200年の”肘折温泉”は”こけし”がかわいい!

台風も過ぎた快晴の朝、ちょうど休みでしたので朝食時に”ちょっとバイクで走ってくる。”と言うと妻は”気おつけてね。夕食まで戻るの?”との返答。考えてみれば、一人で遊びにいくのに快く見送っていただけるとは、なんと寛大な妻でございましょう。その言葉に甘えまして、今回は山形に言ってまいりました。場所は「肘折温泉」! え?なぜって? それは朝食時に娘から”山形に行くなら肘折こけしを買ってきて!” との要望あり。そうです。ツーリングの目的地の決定なんていつも単純です!でも、前にもこんなことがあったような?・・・・ 朝、7時30分に出発し、寒河江市から林道を北に向かおうとしましたが、途中土砂崩れで通行止め。もうすぐ肘折温泉に到着とのことでしたが、やむなく来た道を戻り、尾花沢から南に向かうなんとも長い道のりとなってしまいました。しかし、GPSという頼りになる相棒がおりますので道筋は簡単。と思いきや、今度はこのルートも途中から土砂崩れで変更。 しかし、そこは観光地!民家の横に「肘折温泉」の矢印が・・・・細い山道をたどって行くと、着きました。目的地の肘折温泉です。

出羽三山の近く、銅山川沿いに静かに立ち並ぶ静かな温泉郷「肘折温泉」は、開湯の歴史は807年、2007年には開湯1200年を迎えたとのこと。名の由来には、肘を折った老僧がこの地のお湯に浸かったところたちまち傷が癒えたという説があり、私も体の節々を癒すために早速温泉に入らせていただきました。温泉は「肘折いでゆ館」 大人400円で入浴場が3階なので川を眺めながら入ることができます。温泉の色は茶褐色。そんなに熱くないのでのんびり入ることができました。山形といえば、”蕎麦”とのことから、川沿いにあるこの地に1件だけ?の蕎麦屋に入店。この日はちょっと寒かったので鳥蕎麦をいただきました。やはり山形の麺は腰があり、鳥肉はなんと大きく甘ダレ味、どちらも食べ応え満天で美味しかったです。ただ、ちょっと気になったのが一緒に持ってきた蕎麦湯はどうすればいいのかな?食べ終わった後に汁に足して飲む?または湯飲みに入れて飲む?さすがに迷いながらも聞けなかった自分が情けない。

その後温泉街を歩いて探索。肘折温泉街の旅館は22軒、どの旅館も、さまざまな温泉の効能を存分に堪能できるとのことで日帰り入浴もできます。朝には、道路上で朝市が行われ、採れたての野菜や山菜、くだものなどを温泉街の皆様が持って集まり、お土産店や旅館の軒先に市を開くとのこと。しかし、この通路が結構狭い。車も1台が限度。しかしそこが”ふれあい”を近く感じる昔ながらの温泉街ですので、昔子供のころに家族と行った温泉街に近い懐かしい感じがいたします。あの温泉ってどこだったかなあ・・・・・・。そうそう!娘のために”肘折こけし”を買わなくては。娘が欲しがっていたのは、今は亡き佐藤重之助さんのこけしだったのですが、もう地元の人でも5年前から見たことが無いとのことでした。何でもこけしマニアが買っていったとのことで、現在では肘折温泉在住の工人としては鈴木征一さんだけとのことから、鈴木さんのこけしを購入。私は個人的には、鈴木さんのこけしが好きですね。こけしづくりは、工人のその時々の精神風土や生活背景があらわれ、喜怒哀楽すべての感情が内包されます。そんな中で造られた、なんともいえない微笑んだ目、小さなおちょぼ口。他の地域のこけしには無い表情だと思います。 家に帰ると早速娘に贈答!喜ぶ娘が向かった先は・・・・・・・ガラス棚内のこけしの山! さあ~て、今度はどこまで”こけし”を買いに行きましょうか? ま、”こけし発見”のツーリングも・・・・・・・たまには、悪くは無いかも!

荒浜地区に”かさ上げ道路”のモデルが設置されました。

東日本大震災から2年半!仙台の荒浜地区道路におけるかさ上げ計画の概要が実寸のモデルを作成して表示しておりました。ここは大津波が来た地区であり海岸線においては防波堤を改修工事している最中でしたが、計画では新港・空港ラインにかさ上げ道路を造る予定でもあり、規模は七北川から名取川までの約10Kmにて、堤防機能を付加した高さ約6mのかさ上げ道路を整備するとのこと。盛土においては、震災で発生した瓦礫等を適正に処理した上で、使用するとのことです。現在の鉄骨で作成したモデルを見てみても、結構大きな道路になるようです。現在このような、かさ上げモデルはあちこちで見ることができ、それと同時に周りの環境構想も固まってきているようで、これからの沿岸側の開発計画に希望が持てそうです。

クール宅急便で届いた ”生もの ” ではありません!

先日お話いたしました通り、私の家には、野良猫の”トラ”が、住み着いております。最近めっきり寒くなってきたことからトラの家を作ってやり、その中に寒くないようにと、クール宅急便にて使用いたしました発砲スチロールの箱を寝床代わりにおきましたら、中にスッポリ入り夜はぐっすり寝るようになりました。しかし、この”トラちゃん”、夜はどこかに遊びに行っており、このように寝に来るときは朝の3時頃!そして朝食を出す6時には、玄関先でお座りをし、朝食を待っております。  でも、2か月たっても野良は野良!やはり、今でも触らせてはくれませんねえ~。

台風も過ぎたので、午後から志津川に行ってまいりました。

東北を襲った大型台風も過ぎ、午後からは晴れ間も現れてきたので午後1時から5時までの間、志津川まで短距離ツーリングに行ってまいりました。高速道路を仙台港から鳴瀬奥松島まで走り(料金は750円)、今度は信号が無い巡航道路を快適に走行すると、今度は山道の峠越えの始まりです。集落や谷間を走るといろいろな匂いが漂ってまいります。土の匂いや野焼きの匂い、森林の匂いまで風を切るごとに感じてきます。しかし、以前は海が近くになると磯の香りがしてまいりましたが、今はあまりしないような気がしました。震災の関係かも・・・・・・? 震災後は、何も無かったのですが、次第に企業が進出!まずガソリンスタンドが進出し、その後ファミリーマートなどの店もオープン。コメリや日常雑貨の店が山沿いから作られてまいりました。しばらく走ると、地元の商店街が集まった復興商店街”南三陸さんさん商店街”が見えてまいりました。ここは、震災後すぐに復興商店街として開店し、30店舗ある商店街では豊かな三陸の漁場の魚介類や水産物を提供する居酒屋や食堂をはじめ、花屋さん、蒲鉾屋さん、床屋さんなどもあり、気軽に立ち寄ることができる憩いの場となっております。土・日曜日には多くの観光客が来店し、なかなか入れなかったのですが、ちょうどお昼を過ぎたころでしたので、ゆっくり入ることができました。その後、急ぐ旅ではなかったので、お姉様が歌っているオールディズを聴きながらゆっくりコーヒーを堪能し、人生を振り替えりながらも、これから帰るコースを模索する私でした。

南三陸町の津波による死者行方不明者数は約876名。そんな大きな震災の中でも、最後まで避難を呼びかけた女性がいた防災対策庁舎は、現在でも残っており、残すのか・残さないかが今後の課題となっております。以前にも前を通った時には、震災の衝撃からか写真を撮ることができず、ただ拝むだけでありました。しかし、当時の状況を知れば知るほど、このまま忘れてしまうことはできない出来事なのだと思うようになると、やはり写真を撮って伝えなければいけないと思うようになりました。 宮城県南三陸町の防災対策庁舎は大津波震災時において3階建て庁舎屋上を2mも上回る津波が襲いました。当時の内容を写真を撮っていた被災者が当時の新聞でこう語っております。 ”その日は町議会の最終日だった。役場には佐藤仁町長や職員約40人、町議らがいた。地震後、佐藤町長や職員、町議の何人かが防災庁舎に向かった。防災庁舎2階の防災無線の放送室では、危機管理課の女性職員が高台への避難を繰り返し呼び掛けていた。津波が迫る。職員らが屋上に続く階段を続々と駆け上がった。間もなく、巨大津波が屋上をたたく。何人かは、そびえる無線アンテナにしがみついた。加藤さんは首から提げていたカメラを、とっさにジャンパーの内側に入れた。屋上を流され、やっとのことで外階段の手すりにつかまった。階段の手すりに背を向け、柵に左足を絡めた。津波の猛烈な流れに押され、体は腰を支点にエビぞりになった。体を起こそうにも水圧に勝てない。水位がどんどん上がる。顔が激流にさらされ、沈み、水を飲んだ。死を覚悟したとき、胸ぐらをつかまれた。「ほら頑張れ!」。そばで同じように津波に耐えていた副町長が、体を起こしてくれた。激流の中で手が離れると、また潜った。「やっぱり駄目か」。諦めそうになると、また、胸ぐらをつかんで引き起こす。その繰り返し。生死の境を何度も行き来し、気付くと津波が引き始めた。” 当時の状況には言葉でも言い表せない、また文書でも書き表せない状況が多数あったことも事実です。今後、これらを教訓に震災における対応策を検討していくことが残されたものの使命なのでしょうね。


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